1967年創立 早稲田で一番アツい出版サークル マスコミ研究会! 企画・取材・デザイン・文芸、好きな分科会で自由に活動しよう!

ジャーナリスト 田原総一朗 ~追い求める久遠の理想~

田原総一朗 早稲田

 

「伝説」とよばれる人がいる。
田原総一朗 90歳(取材当時)
日本最高齢にして、最も有名なジャーナリスト。
『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』では名司会者としてその名をはせ、
番組内での発言は政界に多大な影響を与えた。
また、田中角栄から石破茂までの歴代総理経験者を直接取材した唯一の人物でもあるという。
90歳という高齢、そしてこれまでに得た名声を考えれば
隠居していても決して不思議ではない。
しかし彼は今もなお
ジャーナリストの第一線を走り続けている。
なぜ働きつづけることができるのか?
何が彼を動かすのだろうか?
取材の中で見えたのは仕事への情熱と色褪せぬ「久遠の理想」だった。
早稲田が誇る「伝説のジャーナリスト」
田原総一朗の生き様に迫る!

 

夢やぶれた学生時代

──早稲田大学在学中はどのような学生でしたか。

うちは貧乏だったから、大学に入ってから昼間は働いて夜に勉強するという生活を送っていたね。最初の頃は作家になろうと思っていたんだよ。中学生からの夢だったんだ。色んな同人誌にも所属した。趣味など全くやってる時間がないくらいアルバイトで忙しくて、その合間に小説を書いていた。

ところが、在学中に石原慎太郎の『太陽の季節』、大江健三郎の『飼育』を読んで挫折してしまった。加えて、同人の先輩にも「文才がある人間が頑張るのが努力であり、文才のない人間がただ頑張るのは徒労だ」と言われたんだ。その言葉は今でも強烈に覚えているよ。作家はダメだ、じゃあどうしようかと。想像力と文才がなくても目指せる仕事、それがジャーナリストだった。

ジャーナリスト 田原総一朗の原点

──ジャーナリストを志したきっかけは何でしょうか。

最初のきっかけは小学校にあがったころ、戦争が始まったときだね。
戦時中は「この戦争は悪い侵略国であるアメリカ・イギリスを打ち破り、世界中で植民地になっている多くの国を開放し独立させるための正義の戦争である」と教えられていたんだ。
ところが小学5年生の夏休みに、玉音放送があった。玉音放送は言葉も難しくて、ノイズが多かったけれども、要するに戦争に負けたんだってことは分かったね。

そして夏休みが明けたら、先生たちの言っていることが戦時中から180度変わった
「実はあの戦争は絶対にやってはいけない、悪の戦争である。正しいのはアメリカ・イギリスであり、日本は間違った悪の戦争をやってしまった」
「戦争はダメだ、日本は絶対に戦争をしない平和な国になるべきだ」と。
そこから中学生になるまで、とにかく平和な国になるべきだと教えられた。新聞も全部そう言っていた。ところが高校に入ると、朝鮮戦争が始まったんだ。在日米軍が朝鮮半島に派遣されたと報じられた。
そのとき、僕は教師に向かって「戦争反対!」と言ったんだ。そしたら何と「馬鹿野郎! お前はいつの間に共産主義になったんだ」と怒られた。
戦争はダメだと言っていたのに、また世の中が変わったんだ

そうやって、度も価値観が180度変わったわけだ。「軍隊は悪だ、日本は平和になるべきだ」と言っていた人たちが一斉に意見を変えた。そうなったらもう権力というものが信用できなくなってしまったんだ。権力に従う新聞やラジオも信用できなくなった。
じゃあこの国が間違わないためにどうすればいいのか。誰が間違いを指摘するのか。

僕はこの国を滅ぼしたくはないね。
だから、この国が間違わないためにどうすればよいかを研究して、それを世の中に訴えなければいけないと思うようになった。そういう気持ちがあったから、僕はジャーナリストを志すようになったんだ。

日本をよりよくするために

──この年齢まで仕事を続けてきた原動力やモチベーションは何ですか。

小学校、高校と二度も価値観が変わって、これはやっぱり危ないことなんじゃないかと思ったわけだ。何で価値観が変わるんだろうと疑問に思ってね。もし価値観が変わるなら、その一番中心にある原因を取材によって明らかにしなくてはいけない。そして取材によってやっぱり良くないことだと分かったら、その変化に対してはっきりノーと言う。そういう仕事をこれからも続けたい。そういう気持ちが原動力になっていると思っているよ。

僕はこの国を潰そうと思っているんじゃないんだ。もっと良くしようと思っている。
だから政治に間違っているところがあるのなら改革しなくちゃいけない。もっと言えば、与党である自民党が間違っているのなら、それを指摘して改革しなくちゃいけない。

──政治に誤りがあったら、そこを正していくということですね。

そう、それで改革させる。そのために、僕は自民党の総理大臣、幹事長に会って「これは間違っている、直せ」と言っている。でも、自民党の総理大臣や幹事長の周りにいる人はみんな、彼らにお世辞を言うわけだ。
彼らは間違いを指摘されない。だから僕が代わりに指摘すると「ありがとう」って言ってくれるんだ。彼らも別にこの国を潰したいとは思っていないからね。自民党だけでなく、立憲民主党も共産党も本当はみんなこの国を良くしようと思っているんだ。だから、僕は与党でも野党でも直接話し合いに行っているよ。
ありがたいことに、与党も野党も僕を信用してくれている。
それもね、僕がこの国を良くするために行動しているということをみんな分かってくれているからこそできることだと思っているね。

田原

田中角栄からの百万円

──ジャーナリストのあるべき姿勢とはどういったものでしょうか。

この国が間違わないためにどうすればよいかというのを研究して、それを世の中に訴えるのがジャーナリストの仕事だと思っている。
だからジャーナリストは間違いをどんどん追及しなければならないそして、やるべき事を積極的に発言していくのがジャーナリストなんだ。
だから権力との癒着は絶対にダメ。
癒着の典型的な形が、政治家からお金をもらうことだね。でもジャーナリストは、必ずしも欲が深いからお金を受け取っているんじゃないんだよ。
政治家からのお金を受け取らないってことは、その人と喧嘩するってことだから。権力者と喧嘩したらその人含めて政治家に一切取材できなくなる。だから仕方なくお金を受け取っている人もいる。
でも僕はそういうお金を一切受け取っていない。にも関わらず、政治家に取材をすることができている。何でかっていうと、あるきっかけがあった。

昔、
田中角栄にインタビューしたことがあってね。インタビューが終わったあと、田中さんが厚みのある封筒を渡してきた。中身はお金、百万円だね。
でもそれは受け取れない。だから僕は、それを田中さんの政務秘書官である早坂茂三さんへ返しに行った。そうしたら早坂さんが「馬鹿野郎! こんなの返したらオヤジが怒るぞ。オヤジが怒ったら、明日からお前はどことも一切取材できなくなるぞ!」と言って、怒られた。
当時の田中角栄は自民党だけじゃなくて野党も全部仕切っていたからね。だから「受け取らなかったら、野党も与党も取材させてくれなくなって、ジャーナリストとしての生命が終わってしまうよと言われた。
そのあと1時間ぐらい話して、最後は早坂さんが半ば諦めて、返すことができた。明日からもうジャーナリストはできないな、と考えながら帰った。
そうしたら二日後に早坂さんから電話が来て「田原君! なんとオヤジがOKしたよ!」と。田中角栄は怒らないで返還を承諾した。ありがたかったね。田中角栄って人は、そういう意味ではすごく人間的な方だと思った。

その後、ポスト田中と呼ばれていた人たちが僕のところにお金を持ってきても、「田中さんに返したから、あんたから受け取ると田中さんを裏切ることになる」と言って返すことができたんだ。
だから田中さんが返還を了承してくれたことは大きいね。要は田中さんに救われたわけね(笑)

──田原さんは今まで様々な方に取材してこられたと思うのですが、その中で田原さんが一番すごいと思った人物はどなたでしょうか。

分からないね。面白い人はいるけど、一番とか日本一っていうのは別にいない。そんなことを決めるのはダメだと思っているからね。
面白い人といったらやっぱり田中角栄かな。田中角栄が面白いのは、野党にも与党にもお金を配っているところ。前に言ったように僕にだって配った。受け取らなかったけどね。でも、野党も与党の反田中の連中もお金を受け取っておきながら裏切っている。だから僕は彼に聞いてみた。裏切られていいのかって。
そしたら彼はね、裏切るかどうかは向こうの勝手だ、自分は金配ってんだから裏切られても別に怒らないと。これはとても面白い考え方だね。

あとは、アメリカのキッシンジャーかな。
昔、小泉内閣の時に東京でシンポジウムがあった。参加者がキッシンジャー、ロシアのゴルバチョフ、あと元総理の中曾根康弘で僕が司会をやった。キッシンジャーの何が面白いかっていうと、非常にはっきりとものを言うところだね。
彼が言うには、日本には自衛隊がある。一方で日本は憲法を大事にしている。憲法で自衛隊を認めるか、自衛隊をやめるか、どちらか選択すべきだ、と。それを受けてゴルバチョフにどう思うか聞いたんだ。そしたら、よく分からないけどキッシンジャーさんがそう言うなら賛成だって。
あのゴルバチョフだよ? 中曽根さんはそれを聞いて困った顔をしてた
(笑)。
ゴルバチョフも中曽根さんも十分面白い人たちだったけどね。

森鴎外から学んだ「ドロップイン」の姿勢

──田原さんが尊敬している人物はどなたでしょうか。

森鴎外だね。僕が学生のころからずっと尊敬している。有識者の中では一番だと思う。
ジャーナリストは、権力を徹底的に批判するのが仕事だと言われている。だから体制から離脱し、反体制に回って権力批判をする「ドロップアウト」はジャーナリストとして評価されるんだ。森鴎外も若いころからガンガン権力批判をやっていた。でも彼は陸軍の軍医、要するに体制側の人間だった。
つまり森鴎外はドロップアウトせずに、最後まで自分の地位を維持しながら体制を批判していた。僕はその姿勢を「ドロップイン」と呼んでいるわけね。体制内にいながらも、しっかりと権力批判する。僕はその姿勢が素晴らしいと思うし憧れているんだ。だから僕は今でもガンガン権力批判をする。与党だけじゃなくて野党だって批判する。
僕がいまだにずっとテレビに出続けているのもこの「ドロップイン」の一環なの。何でかっていうと、テレビっていうのは免許事業なわけだ。つまり政府が免許を出してくれなくなったら放送できない。だから本来、テレビは政府と喧嘩なんてできるわけがないんだ。
だけども、その免許事業の中でどこまで政府に喧嘩を仕掛けられるのか。これは面白い。
現に僕はそのテレビで政府と喧嘩した結果、総理大臣を三人失脚させたんだから。

──「ドロップイン」の姿勢が田原さんの仕事に生きているということですね。

そう。でもその姿勢はフリージャーナリストになる前から変わっていないよ。
僕はフリーになる前は東京12チャンネル(現テレビ東京)に勤めていたんだ。そのときも局の中にいながら、いろいろと過激な番組を作っていた。そんな中、僕が42歳のとき、当時全国で原発反対運動が盛んになっていた。
ところが逆に、原発推進運動も同時に起こっていた。おかしいなと思って調べてみたら、推進運動のバックに大手広告代理店の電通がいたわけだ。
僕はそのことを月刊誌で暴いた。そうしたら電通が怒って「こんな奴のいる局にはスポンサーやらないぞ!」と。
当時のテレビ東京は今よりもずっと弱かったから、電通からスポンサーをもらえなかったら潰れちゃうよね。だから上から電通批判をやめろ!と言われた。でもこっちも意地だから連載をやめなかった。そうしたら翌月、僕の直属の上司が全員管理不行き届きで処分されちゃった。もうこうなったら辞めざるを得ないじゃない(笑)。こうして僕は退職してフリーになったんだ。