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「短歌は、自分の喜びのために」──岡本真帆さんに聞く

「ほんとうにあたしでいいの? ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」。SNSで大きな共感を呼んだ短歌の作者、岡本真帆さんは、会社員として働きながら歌人としても活動しています。日々の生活と創作のあいだにある距離感や、言葉とはどう向き合っているのか──。誰にでもある日常を31文字の文学へとすくいあげる岡本さんに、創作の背景などを伺いました。
岡本真帆(おかもと・まほ)歌人・作家。1989年生まれ。高知県出身。歌集に『水上バス浅草行き』、『あかるい花束』(ともにナナロク社)。東京と高知の二拠点生活や会社員と文筆業の兼業生活について書いたZINE『反復横跳びの日々』がある。最新刊は『落雷と祝福「好き」に生かされる短歌とエッセイ』(朝日新聞出版)。

 

──短歌との出会い、のめり込んだきっかけを教えてください。

大学二年生の時に、雑誌『ダ・ヴィンチ』に掲載されていた穂村弘さんの「短歌ください」のコーナーをたまたま読んで、短歌に興味を持ち始めました。そのコーナーで紹介されている短歌の作者の方の年齢に目が行って、「同世代でこんなに活躍している人がいるんだ」と羨ましくなって……。嫉妬にも近かったと思うんですが、とても心惹かれたのがきっかけです。でも、その嫉妬のような感情が強く出てしまい、「自分にもできる」と思いたいばかりに、しばらく短歌を遠ざけてしまって。大学卒業後は、表現や言葉への関心から広告業界に就職しました。そこから3年ほど経ったときに、笹井宏之さんの『えーえんとくちから』を手に取ったのをきっかけに、「やっぱり短歌って面白いかも」って思ったんです。それから様々な短歌関連の本を読むようになって、自分もやってみたいと思えるようになり、色々な媒体に投稿をするようになりました。

 

──岡本真帆さんの短歌のイメージとして、日常に溶け込むイメージがあるのですが、短歌を詠むのはどのようなタイミングなのでいるのでしょうか。

なんかよく「ここで一句」とかあるじゃないですか。あれは絶対無理だと思います(笑)。たまに飲み会とかで言われるんですけど、やはり短歌は完成に時間がかかるものだと思っていて。詠みたいなと思ってメモすることはあってもその場で作ろうとかはほぼないですね。

会社員の仕事が10時から19時まであるので、平日出勤前の朝の2時間を創作の時間にしています。基本的にはその2時間の中でエッセイを書いたり短歌を作ったりしていて。時間があるときに創作しようと思ってると一生やらないので、働きながら続けるんだったら、やっぱりルーティン化した方がいいと思いますね。

あと、私はどちらかというとテンションが上がってるときの方が創作意欲が湧きます。「あぁ今日はいい話ができたな」と思う帰り道とか、高揚している時にバーっと色々思いついたりします。ただその情動に頼りすぎても、全てはコントロールできないじゃないですか。だから気分が高揚したタイミングでスマホにササっとメモして、その素材を冷静になったときに整えるようにしています。この時の自分すごく強い言葉使ってるけど、ここ面白いからこうしようかなとか、別の自分として見極めができたりするので。

 

──歌集やトークイベントなど、お仕事として短歌を書かれることも多いと思うのですが、趣味としての短歌と、仕事としての短歌の違いはありますか?

自分のために作る短歌と、依頼をいただいて作る短歌、どちらも短歌を作る動機としては、自分が楽しいからやっているというのが根底にあります。広告業界にいたこともあって、仕事で短歌を書き下ろすこともあるのですが、広告の場合は求められているものがありますよね。短歌を作ることによって、その作品とか商品のいいところを表現するみたいな。その商品そのものがあることで良くなった暮らしとか、生活とかをイメージして、共感させるような、ブランディングに近いことが短歌はできると思っています。他の人も意識しながら作るという点では、自分のために書いている短歌とは違いがありますね。

 

──歌集は趣味に近い、という感じでしょうか。

趣味と言い切るようなライトな存在では最早なく、私が私として生きていくための、自分のための作品作りだと思っています。『あかるい花束』の一番最後に「祝福」という五連作があるんですけど、実はこれは三ツ矢サイダーのボトルへの書き下ろしとして作ったものなんです。お仕事のご依頼をいただいて作ったものではあるんですが、完全なキャッチコピーとは違って、あくまで私の作品として制作するというベースがあります。自分の作品として世に出せるかどうかというところでは、個人の制作も、ご依頼いただいて作るものも同じですね。

──三ツ矢サイダーをテーマに自分で短歌を詠むとしたら、という感じで作られているんでしょうか。

三ツ矢サイダーそのもので詠むというよりも、三ツ矢サイダーを飲んだ時の気持ちとか、それがある生活とか、自分のうきうき感とか、関連するようなところから広げて考えています。必ずしもそのなかに炭酸が出てくるとは限りません。基本は感情をベースに、自分の記憶を思い出しながら歌にしています。

 

 

──言葉を扱う仕事をする上で、詩や俳句ではなく短歌を選んだ理由はありますか。

本屋でたまたま短歌の歌集を手に取っていたことがきっかけですね。あとは31音っていうサイズ感が自分に合ってたのかも。短歌より先に良い俳句の歌集に出会っていたら、もしかしたら……その道もあったかもしれません。

 

──どんな歌を詠むのが得意ですか。

印象としては明るい歌が多いって言われるんですけど、自分としてはなんでも歌にしてきているなと思います。得意不得意とかっていうよりも、振り返ったときに嬉しかったこととか切なかったこととか、自分の心にざらっとして残っていることを歌にしたいなと思っていて。短歌という、持ち運びやすく人に覚えてもらいやすいサイズになったときに、自分が何を残したいか、ということを考えて作っています。だから嬉しいとか良かったこととかポジティブな側面の情報が多い傾向にはあるかなと思う。

辛いことだとしても「この時の経験って得難かったな」とか、時間が経って見てみると「今の私は絶対この言葉遣いしないけど、このときにしか作れない歌だったな」って思うことがあるので。今の自分にしか作れない歌をその都度作っていくというのがすごく大事だなって思います。

 

──短歌をやっていて良かったなと思ったことはありますか。

短歌は基本自分の喜びのために作っていて、楽しいと思えるのでそれだけで短歌に出会えて良かったと思いますね。他にも、制作の過程で、たまに「これは絶対にいい歌だな」って作った瞬間に分かるときがあるんです。年に1〜2回くらいですけど、自分でも驚くことがあって。 一首が完成したときの強烈な気持ちよさというか、嬉しさが忘れられなくて短歌を続けているところはありますね。創作の喜びを知れて良かったなって思います。

あとは歌集を出して、読んでくださる方ができて、サイン会やイベントで感想とかをいただいたりするとすごく嬉しいですね。壁打ちみたいに作っていたものが人に届いて、誰かに共感してもらえたりとか、誰かにとってお守りのように大事にしてもらったりとか。言葉って、人を傷つけるのも救うのも紙一重だと思っています。言葉による自分の加害性みたいなものを自覚しつつ、書くことで初めて会えた人とか、初めて聞けた声もあるので、これからも作品を作っていくんだろうなと思います。

 

──スランプはありましたか。また、スランプに陥った時の乗り越え方、向き合い方はありますか。

第一歌集の刊行が決定した、その2年前ぐらいから、まさにスランプ状態でした。短歌を見る目が肥えてしまったことが理由で。読む時は細かいところまでジャッジできても、自分で作る技術が追いつかなかったんです。作ってみても、過去のものに比べると全然いい歌じゃない、という感じでした。

乗り越えたきっかけは、上坂あゆ美さんと知り合ったことです。元同僚との飲み会で、「面白れぇ友達連れていくぜ」って言われて連れてこられたのが上坂さんでした。話しているうちにお互い短歌をやっていることがわかり、歌集の刊行時期も近くて、「もうやばいね、歌数全然なくない」「じゃあ一緒に作ろう」という話になり……。そこでX(旧Twitter)のスペースで、リスナーさんからお題をもらって、それに対する短歌を3~5首くらい持ち寄ってぶつけ合う『生きるための短歌部屋』という公開型の歌会をやりました。どんどん短歌を作らなきゃいけないという状態をこなしてるうちに感覚が戻ってきて。完璧な歌じゃなくても腹をくくって人に見せていくうちに、ダメな自分も許容できるようになってきて、下手でもいいじゃんみたいな(笑)。たくさん作って手を動かすのが大事なんだと開き直ってから、「平日の明るいうちからビール飲む ごらんよビールこれが夏だよ」や「南極に宇宙に渋谷駅前にわたしはきみをひとりにしない」などの、自分でもすごく良いと思える歌ができて、スランプを乗り越えました。

 

──良い短歌の基準はあるのでしょうか。

私の一つの基準としては記憶に残る歌ですね。記憶に残って暗誦できる歌は良い歌だと思います。

 

──最近はSNSの影響もあって短歌を詠む敷居が低くなっていると感じます。短歌が多くの人に詠まれるようになってから、短歌ブームを実感することはありますか。

私が短歌を詠み始めた2014年頃からX(旧Twitter)には短歌クラスター的なものはあったんですよ。短歌を詠み続けていた人は前からSNSにいたなと思います。でも、最近はきっと増えてるんでしょうね。クラスターにいない人も短歌を詠んでSNSに投稿しているのを見かけた時は実感します。

あとは、書店に短歌コーナーができているのを見た時ですね。昔は短歌も川柳も詩も全部一緒の棚で売られてたんですけど、今は短歌だけの棚がある。歌集も増えているし、それを買う人も増えているんだなぁと実感します。あとはアンソロジーなんかも増えていますよね。

 

──自身が想定していたものとは違う読み取り方をされることはありますか。

全然あります。表現は結局受け取る人が解釈するものなので、自分が表現してることが100%伝わらなくてもいいかなと思ってます。でも、客観的に見て伝わるかどうかは結構重視しているので、何も知らない人が見ても伝わるかどうかはチェックするようにしていますね。色々な人に見せたり、歌会に行ったりして、自分の思っていることと人からの読み取られ方のギャップを確認していったり。明らかに誤解されていた場合は、狙いと離れているので直しますが、「こういう面白い読み方もあるんだな、これはこれでいいな」と直さないこともあります。

 

──短歌は型が決まっている分、素人でも五・七・五・七・七を当てはめれば一応短歌という括りになってしまうと思うのですが、短歌だと定義できるラインはあるのでしょうか。

迷いますよね、これって短歌って言っていいのかなみたいな。分かります。でも私は、三十一音になっていて自分が短歌だと思えばそれは短歌でいいんじゃないかと思います。最初はそれで全然良いと思うんです。その上で、「今回は二句切れの歌を作ろう」「今回は助詞で終わるように作ろう」と様々な技巧を自分に課しながら負荷をかけるようにやっていくと、色々な表現が身についてきたり、他の歌人はこの表現でどういう歌を作っているのかっていうのが吸収しやすくなってくるんです。まずは三十一音と仲良くなりつつ、縛りプレイみたいに技巧を加えていくと五・七・五・七・七の解像度が高く見えてくるのでお勧めです。

──なるほど。上達したい人は自分に制限をつけてみると良いということでしょうか。

感覚だけで上達して天才になれるなら良いんですけど、難しいじゃないですか(笑)。制限した中で色々やってみてどうなるかなっていうことを自分に課していくと、自分がコントロールした言葉を使えるようになるんですよね。自分の気持ちを器にどう乗せるかっていう微調整ができるようになるので、その状態で推敲をすると自分らしい表現が見つかりやすいんじゃないかなと思います。

 

──岡本真帆さんにとってズバリ、短歌とは何でしょうか。

 これキラーフレーズ的に使われる感じですかね(笑)。

──一言でパーンっておっしゃっていただけたら、もしかしたら(笑)。

無理に分かりやすく強い言葉で言おうとすると、嘘が混ざりやすくなってしまうので、慎重に答えないといけないですね……。なんでしょう……「自分の喜びのために作っているもの」というのは変わらないですね。それ以上でも以下でもない。「人生を楽しくしよう」と思ってやってるわけではなくて、作ると決めたから作っている。これがいちばん誠実な答えだと思います。

 

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